目次
はじめに
最近、ふとした瞬間に気づくことがある。「10年前の自分より、今の方が物事を正確に捉えられているんじゃないか」と。情報を処理する速度は落ちたかもしれないが、その情報の背景や関連性を理解する力は、むしろ上がっている気がする。
ずっと、人間の成長は20歳くらいで止まると思っていた。身体能力のピークが20代前半なら、脳機能も同様に衰退の一途を辿るだろうと考えていた。しかし、実際に自分の変化を観察してみると、どうやら現実はもう少し複雑らしい。
今日は、僕自身の経験をもとに、認知能力と成長の関係について考えたことを書いてみる。
10年前より正確に捉えられるようになった
10年前の自分を振り返ると、物事の見方が随分と変化していることに気づく。当時と今では、情報に対する咀嚼の仕方が根本的に異なっている。
当時は情報を受け取るだけで精一杯だった。ニュースを読んでも表層的な理解に留まり、「へー、そうなんだ」で思考が止まってしまう。その背後にある社会構造や、利害関係、因果の連鎖といったものまで考える余裕がなかった。
今は違う。情報に触れると自然と「なぜそうなったのか」「この事象と別の事象に相関はあるか」と考えるようになった。情報を単体で受け取るのではなく、既存の知識体系の中に位置づけて理解しようとする。多角的に物事を見る視点が増え、情報の背景にある構造を把握しようとする習性がついた。
これは単なる経験値の蓄積なのか、それとも認知能力そのものが成長しているのか。たぶん両方で、お互いに影響し合っているんだと思う。
20歳までという固定観念
「人間の成長は20歳まで」。これは、僕が長い間信じていた固定観念だった。生物学的な観点から見れば、この考え方にも一理ある。
身体能力に関して言えば、この仮説はほぼ正しい。筋力、持久力、反射神経、いずれも20代前半でピークを迎え、その後は維持するか緩やかに衰退していく。これは生理学的な事実であり、どれだけ鍛錬を積んでも覆すことは難しい。
脳機能も同様だろうと考えていた。記憶力や情報処理速度、発想の柔軟性といった認知機能は、若年期にピークを迎え、加齢とともに低下していくものだと。この前提に基づけば、30代以降の知的生産性は必然的に下降線を辿ることになる。
しかし、実際に自分の変化を観察してみると、現実はそう単純ではないようだ。
一流大学出の人と仕事をして
今の職場では、いわゆる一流大学出身の人たちと一緒に働く機会が多い。彼らと仕事をする中で、僕の中にあった偏見が徐々に崩れていった。
以前の僕は「高学歴のエリートがルールを作る社会は不安定だ」という漠然とした懸念を持っていた。理論ばかりで現実が見えていない、実務感覚に欠けた机上の空論ばかりじゃないか、と。ある種の反知性主義的な偏見だったかもしれない。
でも実際に一緒に働いてみると、その認識は大きく変わった。
彼らは確かに理論的思考に長けている。でもそれ以上に、現場の実態を的確に把握して、状況に応じて柔軟に対応する力を持っている。抽象的な理論と具体的な実務のバランスを取りながら、複雑な問題に対して実行可能な最適解を導き出す。その姿を見て、僕の固定観念は単なる根拠のない偏見だったんだと気づかされた。
フィジカルと脳のピーク
身体能力は鍛錬によって向上する。筋力トレーニングを積めば筋肉量は増加するし、持久走を継続すれば心肺機能は強化される。しかし、どれだけ努力を重ねても、身体機能のピークは20代前半に訪れ、それ以降は緩やかな下降線を辿る。これは生理学的な限界であり、30代、40代になれば、若年期と同等のパフォーマンスを維持することは困難になる。
脳機能も同様の経過を辿ると考えていた。記憶力や情報処理速度といった認知機能は若年期にピークを迎え、その後は維持するか衰退するかのいずれかだと。しかし近年の神経科学の研究は、この単純な衰退モデルに疑問を投げかけている。
論理的思考力、複雑な問題を解決する能力、多様な情報を統合して判断を下す力といった高次の認知機能は、必ずしも若年期にピークを迎えるわけではないという。むしろこれらの能力は、経験の蓄積と共に成長し続ける可能性があるのだ。
確かに短期記憶や処理速度といった基礎的な認知機能は加齢とともに低下するかもしれない。しかし、物事の本質を理解する洞察力や、複雑な状況下で適切な判断を下す能力は、年齢と共に洗練されていく。そう考えると、加齢を単なる衰退として捉える必要はないのかもしれない。
感情の変化 - 感動と笑いが薄くなる
一方で、感情の起伏は明らかに鈍化している。これは認知能力の成長とは対照的な変化だ。
特に顕著なのは、感動と笑いの感受性の低下である。映画を観ても以前ほど涙を流すことがなくなった。笑いに関しても、心の底から笑うという体験が減少している気がする。感情的な反応の閾値が上がったというべきか。
これは果たして望ましくない変化なのだろうか。
感情が薄くなるということは、感受性の鈍化を意味するのかもしれない。豊かな感情体験を失うことは、人生の彩りを失うことにも繋がる。しかし同時に、感情に過度に振り回されることなく、冷静に物事を観察し分析する能力が身についたとも解釈できる。
今の僕は何かを追求している。それが本当に正しい道なのか、時々自問することがある。感情を犠牲にしてまで論理性を追求する価値があるのか、と。
でも、感情が鈍化したからこそ、論理的思考と客観的判断ができるようになったという側面もあるんだと思う。これが良いことなのか悪いことなのか、今のところ明確な答えは出ていない。
脳は成長し続ける
脳の可塑性に関する研究は、僕たちに希望を与えてくれる。人間の脳は、これからも成長し続ける可能性を秘めているのだ。
確かに、短期記憶の容量や情報処理の速度といった基礎的な認知機能は加齢とともに低下するかもしれない。感情の起伏も、若年期ほど激しくはなくなるだろう。これらは避けられない変化として受け入れる必要がある。
しかし一方で、物事の本質を見抜く洞察力、複雑な問題に対する判断力、多様な情報を統合して意思決定を行う能力といった高次の認知機能は、経験の蓄積と共に洗練され続ける。これらは若年期には獲得し得ない、成熟した知性の領域だ。
成長は20歳で止まるわけではない。30代には30代特有の、40代には40代特有の、50代には50代特有の成長の形がある。それぞれの年齢段階でしか獲得できない知見や能力があるのだ。
大事なのは後悔のない選択をすることだ。そして、今この瞬間にしか経験できないことを、確実に経験すること。これだけは常に意識していたい。
今しかできないことを、今やる
最近になってようやく分かってきたことがある。人間の成長は決して止まらない。ただ、成長の性質と方向性が年齢とともに変わっていくだけなんだ。
若い頃は圧倒的な吸収力があった。新しい情報をどんどん取り込んで、記憶して、高速で処理する能力に優れていた。脳の可塑性が高くて、新しい知識やスキルの習得が簡単だった時期だ。
今は様相が違う。情報の吸収速度は確かに落ちたかもしれない。でも代わりに、深い理解力が身についた。バラバラな情報を統合して、複雑な構造を把握して、表面的な現象の裏にある本質を見抜く力が養われてきた。これは若い頃には得られなかった能力だ。
感情の起伏は鈍くなったけど、その代わりに客観的に物事を観察して分析する冷静さを手に入れた。
この変化が良いものなのか、それとも何かを失った結果なのか、今の時点で判断するのは難しい。でも確実に言えるのは、今の自分は10年前の自分よりも、物事をより正確に、より深く理解できているということだ。
脳は生涯にわたって成長し続ける可能性を持っている。だから過去を悔やむんじゃなくて、今この年齢だからこそ経験できることを、確実に経験していく。
それが今の僕の答えだ。